« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

土鍋。

以前に少し書きましたが、先日土鍋を買いました。たまたま安く売っていたので衝動買いに近い感じだったのですが、意外にも我が家でイチバン活躍しています。ひとり鍋。

前まではふつうのお鍋で作っていたので冷めるのも早いし(うちにはカセットコンロがないのです)なんだか余計に寂しい気分になったものですが、土鍋だと保温もばっちり。味の素の鰹だしにお塩と少しの醤油で下味付けて水炊きを作ってます。週に3回くらいやるんだけど飽きないのよね。簡単に作れて、自炊してる気分になれるからかな。

先日、いつもよりちょっと高めの、とは言っても100グラム139円だけど、豚肉を買ってきて水炊きをしたら、お出汁がとても美味しかったです。やっぱり、いい味を出そうと思うとやっすいもの買ってたらダメだなぁ。でも、基本的にお鍋は安く済ませたいので価格を上げるつもりもないんですけど。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『アンヴィル』 at 早稲田松竹

就職して関東圏に住みだしてからお世話になっている方より、久しぶりに連絡がありました。しばらく連絡を取っていなくて、先日メールしたら宛先不明で返ってきて若干ブルーな気持ちになっていたので、ほっと一安心(笑)今は高田馬場にある早稲田松竹で働かれているとのことで、「遊びにどうぞ」とおっしゃって頂いたので早速ラインナップをチェック。

むむむ……!

ナゼ今まで存在を知らなかったのだろうと後悔してしまうくらいにステキなラインナップじゃないですか。名画座と聴いていたのでかなり昔の映画をイメージしていたのですが、全然違います。今後の予定はこちらを。これは一度足を運んでおかなくてはということで、けんちゃんを誘って早速行ってきました。

劇場自体はふつうの映画館と比べるとちょっと小さめですが、こぎれいでイスも座りやすいものです。男女ともにひとりで見に来られている方が多くてビックリしました。そこはさすが名画座。映画好きな雰囲気を醸し出す方がたくさんいらっしゃいます。もちろん、駅から近くてアクセスしやすいこともあってか、ご夫婦やカップル、友達同士など、複数で来られている方もおおぜい。土曜日だったので劇場は満員でした。たしかにこのラインナップだと満員になるわね。

んで。

今回見てきたのがこれです。

アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち
監督:サーシャ・カヴァジ

80年代初頭、スラッシュ・メタルの旗手として脚光を浴び、多くのバンドからもリスペクトされたカナダのへヴィ・メタル・バンド“アンヴィル”。1984年には日本で開かれたロック・フェスに出演し、大観衆の前で熱演。そしていま、アンヴィルのヴォーカルでリーダーのスティーヴは、給食配給センターで働いている。結成時以来のメンバーで親友のロブは無職だ。バンドは続けているが、かつての人気はない。そんな彼らに、ヨーロッパツアーの話が舞い込んだ。2人は再起をかけるが…。
goo映画 「『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』作品解説・紹介」(2010.2.22)

一度脚光を浴びてスターダムの仲間入りを果たしたにもかかわらず、その後泣かず飛ばず。結局音楽では食べていけず、50代になっても家族の支えで生活しながら音楽を続けているロックなおじさんたち。

夢追い人なんてかっこいい!とか、口が裂けても言えません。彼らには到底及びませんが、我が家も兄弟揃って夢追い人的気質があります。母親には「他人ならいいけど、夢を追うやつはうちにはいらない」と言われます。そんなことを言われても追わなくなることはないのですが。

まぁ、何が言いたいのかというと、「やりたくない仕事はしたくない」とか「好きなことを仕事にしたい」なんて思っている人は、とりあえず見てみればいいんじゃないかなぁってことです。別に、これを見て堅実さを目指せとか言う気はまったくありません。ただ、自らの道に進むということは、周りの人間も自ずとその道へ巻き込んでしまうことを自覚しなければならないということです。脚光を浴びないにもかかわらず継続を選択することは、周りの理解があって初めて成り立つものです。

こんなところまで書きながら、実はいちばん印象に残っているのが別のシーンだったりするんですけどね。ま、あんまり書くとちょっとリアルなのでこの辺にしておきます。

とりあえず、早稲田松竹はこれからお世話になりそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『つむじ風食堂の夜』

昨日はぐっすりと眠れたのに、今日はどうも眠れなくて5時に目が覚めました。そこから寝床でだらだらとケータイからオリンピックチェックしたりしてて、結局そのままお昼まで寝てしまったのだけど。

仕事に向かう集中力が切れてしまったので、読み終えた本をご紹介。

『つむじ風食堂の夜』
吉田篤弘

月舟町にある、ちょっと風変わりな食堂に集まる人たちが織り成す日常風景が描かれています。

文庫なのにツカも薄くて文字数も少ないのでサクッと読めてしまうのですが、どうも読むのに時間がかかってしまいました。別にだらだらと読んでいたわけではありません。読んでいて、なぜだかテンポが合わなかったんですね。文章も文体も嫌いなワケではなかったですし、展開もどちらかといえば好きなほうだったんですけど。なんでだろうと読み終わってから考えてみると、なるほどそれがこの作品独特の「間」なんだろうなぁと思うのです。

この本は、なんだかとてもゆっくり時間が流れているんですよ。もちろん、『スラムダンク』や『キャプテン翼』のように1試合にコミックス何巻分使うんだ、というようなものではありません。作品の中にある時間の流れ方が、僕自身の中にある時間の流れ方とは2テンポくらい遅いんです。たまに田舎に行ったときに感じる、心地いい時間のゆるさみたいな、そんな類の時間差を感じるのです。

おそらく、それが月舟町の時間の流れ方であり、先生の生活リズムなんでしょう。彼が目の前の人たちや風景を見て、ものごとを考えていく過程が、ゆっくりとした時間の中で行われていることがこの小説の特徴です。特別な事件が起こるわけでも、何かが大きく変わっていくわけでもありません。ただ、この中には先生の過ごす日々のスピードが描かれているのです。

人は日々を過ごすなかで自分自身というものに少しずつ気付いていく。そういうことを言いたかったんじゃないかなと僕は思います。作品内で出てくるクロケットとエスプレッソがそのメタファじゃないでしょうか。そんな気がして仕方ありません。

映画を見ることができなかったので、DVDがリリースされたらゼッタイ見ようと思います。

つむじ風食堂の夜

| | コメント (0) | トラックバック (0)

川島郁子というひと。

先日編集の先輩や後輩や他社の人を含めて飲んでいた席で、ちょっとした話題として「優しさ」が出てきました。飲みの席だったのでそれ程鮮明には覚えていませんが、編集の先輩は誰に対しても均一の優しさをちゃんと配分できる人だ、とか、それだと特別な人にも他人と同じ優しさでしか接しられない、とか、まぁそんなような話です。「優しさ」と聴いてどうしても川島郁子さんのことを思い出さずにはおれなかったので、今日は彼女について書いておこうと思います。

以前にちゃんと書いたと思ったのですが、どうも見当たらないようです。いい機会なので、書き留めておきます。と思って、書いてみたらすげぇ長くなった(笑)

続きを読む "川島郁子というひと。"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

あぁ、なるほどなぁと思う。

先日発売された『モテキ 3』の感想が書かれたものを見つけました。読んでいて、「あぁ、なるほどなぁ」と感心してしまったので、メモ。

『モテキ』3巻
「雨宮まみの「弟よ!」」(2010.2.4)

このマンガは女性の心的描写がとても上手いんですよね。まぁ、僕は男なんで「男から見ると上手いと思える」ってだけのことなのか、「ほんとに上手い」と思えるのかがよく分かっていませんでした。僕の周りの女性でこのマンガを読んでる人がいなかったので…。なので、この感想に出会えて、なんとなくスッキリしてしまいました。やっぱり、女性が男性に対して言いたいことが込められてるんですね。これ読んだ後に女性の感想を直接聴いてその通りの感想が返ってきたので、いろんなものが胸に刺さったのは言うまでもありません(笑)

以前、『Life』の草食系男子の回で、肉食と草食は何をメタファしたものなのかって話をしていたことがあります。そのなかで肉食は性欲のメタファなんだけど、草食は自己愛のメタファなんじゃないか説が出ていました。あぁ、なるほどなぁ、と。肉食に見えても本質的に草食な人もいるし、草食に見えてただのチキンな人なんてゴマンといるわけですねぇ。

出版社勤めなのに、最近早くも読書量が減っていきます。活字は結構読んでいるのになぁと振り返ると、そうだ、ブログばかりを読んでいたのでした。気になった記事を箇条書きしておきます。

キャズムの超え方
「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」(2010.02.04)

いかにも広告サイドの方っぽい考え方ですが、iPAD関連のエントリでは一番好きです。iPAD+電子書籍ネタでもうひとつ。

出版業界が不振というのと読書離れとは別問題
「大西 宏のマーケティング・エッセンス」(2010.02.04)

当然、別問題。出版業界が不振なのは出版業界のせいであって、読書離れの要因は別途複数あるように思われます。ってか、KindleってCMやってんのかよ。あ、電子書籍ネタが出たので元に戻ってみて。

パッケージングの問題
「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」(2010.02.04)

こういう話題を見てしまうとどうしても卒論書いていたときに読んだ『メディアの生成』を思い出します。内容をすっかり忘れてしまっているので、もう一度ちゃんと読んでおかないと。

まったく別の話題をいくつか。

事務次官制度をどうにかする10の方法
「H-Yamaguchi.net」(2010.02.04)

このネタ、好きです。(笑)、付ければいいのに。

「ソーシャルメディアマーケティング」に取り組まないリスクって?
「イケダノリユキのCommunitainment Blog」(2010.02.05)

ソーシャルメディアマーケティングがいかに大切なのかは理解できるのですが、それを適切に運用するのがいかに難しいかもわかる気がします。うちは導入できなくもないけど越えなきゃいけないハードルがいっぱいあるんだよねぇ。これぞ企業文化。

さて、最後にメディアの端くれとして忘れてはいけない問いを。

2010年代に「世界をよりよくすること」はできるのか
「Tech Mom from Silicon valley」(2010.02.05)

90年代以前に技術決定論が余り頭のいい話ではないことが諸々の新メディア計画頓挫で明確になっているので、今さら新製品や新テクノロジーで世界が変わるとは思いません。おそらく日本でも10年代のキーワードのひとつは「クラウド」の気がします。インフラ面で新しい概念が導入された上に僕らの生活は成り立っているので、ソフトを作る側として新たなインフラが生活に定着していく中で必要となってくるものを適正な形で提供していかなくちゃいけないんですね。

眠たくなってきたので今日はこの辺で。

ではでは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『Dr.パルナサスの鏡』

先日けんちゃんと話していて、映画『ソラニン』のHPがやばいという旨を聴きました。帰宅して確認してみると、なるほど、確かにやばい。ってか、原作を読んでいるだけに予告編だけでじわっときてしまいます。主題歌を歌うのは、彼ら以外はいないだろうと思っていたらまさにその通りになってしまったASIAN KUNG-FU GENERATION。春の邦画としては期待度No.1です。

どうやらけんちゃんがiPhoneで映画を過剰摂取しているようで、負けじと劇場へ足を運んでみました。

Dr.パルナサスの鏡
監督:テリー・ギリアム
出演:ヒース・レジャー、クリストファー・プラマー、ヴァーン・トロイヤー、アンドリュー・ガーフィールド

現代のロンドンに奇妙な舞台と旅芸人の一座が現れる。1000歳以上という老人のパルナサス博士、娘のヴァレンティナ、曲芸師のアントン、そして小人のパーシーが一座のメンバーだ。ある晩、博士の前に悪魔のニックが現れる。博士はかつて悪魔と不死と引き換えに、「娘が16歳になったら差し出す」取引をしていた。一方、ヴァレンティナは橋で若い男トニーを助ける。記憶喪失の彼はそのまま一座に加わるが、それは悪魔の企みだった。
goo映画 「Dr.パルナサスの鏡」作品解説・紹介 (2010.02.1)

テリー・ギリアム監督の世界にそのまま入っていくことができるか否かで、まず受け入れ可否が決まってしまう本作品。上記の通り、ロンドンの旅芸人一座が物語の舞台です。ただ、この旅芸人一座が一体何者なのか、なぜパルナサス博士と悪魔が取引をすることとなったのか。あらましは回想シーンで出てくるのですが、詳細な事情や背景は説明してくれません。最初はどうしても気になってしまう部分ですが、そこはさすがギリアム節。テンポのよい展開で、そんなところをすっ飛ばしても映画の中の世界に浸れるような作りになっています。

この映画は、博士が悪魔と取引をすることで物語が展開していきます。取引とは、博士の鏡、幻想館の中で、入った人を博士側と悪魔側のどちらに引き込むことができるか、その人数を競う“賭”です。博士の用意した道を選択して悟りを開くか、悪魔の誘いに乗って死へと導かれるか。鏡の中へ足を踏み入れた者には、必ず彼らの用意した二者択一のルートが設定されているのです。

入るか入らないか、右か左か、善か悪か、YesかNoか、博士か悪魔か。鏡の中は2つのルート分岐から必ずどちらか片方を選択しなければなりません。僕はどうも、この二元論で進む物語の設定に、この映画の仕掛けが隠れているような気がします。ギリアム監督は、とかく二元論に終始しがちな今の世を嘲笑したかったのではないか、と。

イエスかノー、白か黒の二元論でしか判断できない(それがよしとされる)状況や風潮は、とても恐いことのように思えます。誰しもがどちらかを選ぶことを、既に選択されてしまっているからです。ゲームボードに乗っていることが前提で物事が進められていき、どうしようもなくどちらかを‘選ばざるをえなかった’状況に対して自己責任論をぶつけるのは、社会のシステムが機能していない証拠です。にもかかわらず、世間を見ると二元論法が跋扈していて、自分自身を省みても結構そういう思考に陥っていたりもします。

イエスとノー以外に、「ゲームボード自体に乗らない」とか「降りてしまう」「新たなゲームボードを用意するために集結する」といった選択肢を持てるような社会が求められているのではないかと、この映画は皮肉っているように感じてしまいました。なぜなら、結局ゲームボードを用意した側が悪びれもせず後の世界に存在しているからです。娘を賭の対象として愚かな選択をしたオトコどもを始末した彼らは、最終的にそれ自体を商売にしてしまいます。『キャピタリズム』を見てしまったからでしょうか。僕はこの状況を見て、まさに80~90年代のアメリカン金融を風刺しているようなイメージをしてしまったのです。

一方で、見た人によっては全然違うイメージを抱いていたりもしました。とある人はこの映画を「娘を嫁に出す、娘の幸せを願う父親の映画なのだ」と指摘しました。鏡によって悪いオトコを排除して、幸せな家庭を築いてもらえるよう努力する父親の映画なのだ、と。

むむむ、なるほど。指摘されたとき、そのイメージが僕の中に全くなくてなんだか悔しい気分になったりもしました。雰囲気からしてもそんなハートウォーミングな想像はできませんでしたよ。もうちょっとPureなフィルターを持たないといけませんね。こうして比べると、完全に歪んでるやん(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »