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雑誌の講読をお願いしてみた。

会社で『宣伝会議』か『販促会議』か『広報会議』を定期購読してくれるようにお願いしてみたら、『販促会議』くらいはなんとかなりそうな感じになっています。前にお願いしたときは即却下だったのですが、この手のひらの返し方に年度末の嫌な予感が横切らずにはいられない今日この頃。

で。

課長が専務にそんな話をしたら、なぜだか博報堂が発行してる『広告』の最新号をもらいました。つーか、なんでうちの会社に2冊もあるんだよって話は笑顔で飲み込んで。雑誌のラックに置いてあると気になってしまって、「メディア論好きな人には面白い雑誌だけど、誰が読むのかねぇ」なんて思いながらぱらぱらめくってます。今号も同じようにパラリとめくってみたら、なんと濱野智史さんと宇野常寛さんの対談が載っているではないですか。特別対談と銘打たれたタイトルは「いま、ネット空間では何が「生産」されているのか」ということで、いつもどおり思うところをメモ的に。

トフラーのプロシューマー概念をもとに、今の日本のものづくりとそれを享受する側の行動の特徴について対談されています。この手のものを読むと「肌感覚で、なんとなくそうなんだろうな」としかとらえていなかったことが、「なるほど、まとめるとそうなるのか」という、現場感覚ではなかなか見えてこない体系的な落としどころをちゃんと言葉にして改めて確認できるんですよね。理論的なことって「そんなの知らなくていーよ」と嫌う方もいらっしゃいますが、アカデミックよりのメタ視点は自分だけでなく今の世の現象、社会を知るひとつのツールだと思うのでちょくちょく読んでます。

今回はプロシューマーの話から日本人の消費と生産の境界線の希薄化について書かれてます。ボーダレス化がアメリカ人には見られない日本人の特徴だ、と。一方で、濱野さんは「アメリカでは才能があれば、ネット上での表現でいつでもスターダムに上がっていける」と、個人主義的な背景にネット上のプラットフォームがマッチしているかのような話をしています。「おいおい」と、ちょっとアメリカン・ドリームをデフォルメしすぎている気がしなくもないですが、これって案外納得できちゃいました。大学時代のゼミ合宿だったでしょうか。教授と「匿名性」の話題になって、日本人と欧米の「匿名」に対する価値化や目線の対極的な相違について酔っ払いながら話をしました。したたかに酔っていた記憶があるので話の詳しい中身は覚えていませんが、ものすごくかいつまんで要約すると日本人は大衆と同化する傾向が強く、欧米での大衆は個が集合したものを指すのではないか、なんてことでした。

何が言いたいかというとそんなに小難しいことではなくて、「成り上がりたい」とか「ビッグになってマネーをゲット」とか、そんなことを考えながらニコ動にアップする動画を作ってる人は少数派だよなぁってこと。宇野さんは、生産したものを消費する人がそれを下敷きに何かを生産して、生産者がそれを取り込んでいくような形で成り立っているところがあるって話をしていて、その代表がガンダムだと言ってるんですね。ネットの集合知のようなものが、ネット以前から日本にはあったと。

いつぞや一億総クリエイター時代なんて言葉を聴いて、「勘違い感」をバリバリに感じてしまったことがありました。だれでもクリエイターって、もうその時点でクリエイターちゃうやん。それってクリエイトじゃなくて、生産されたものに対するただの「リアクション」。受け手がマッドムービーとか作っちゃうのも、生産ではなくてリアクションの範疇。で、消費者のリアクションと生産活動の区別がつかなくなってるからボーダレス化になっていて、それは昔から一部であった話で、ネットなるプラットフォームが出来上がってきてそれが顕在化しただけの話ではないかってこと。まぁ、対談で言ってることと同じ話ですけど。

だからこそ、「送り手と受け手の共犯関係」が可能になるんだろうなぁ。

「バラバラに散らばってしまった消費者たちと共犯しつつ、今までにないクリエイティビティを発揮していくしかないだろう」

コンテンツとともに、その周辺のコミュニティ形成を利用しなければ生産したものが広く享受されないってことなんですね。なるほど。そう考えると、ディスカヴァーさんがやってるブログなどはいい循環として機能してるんでしょうね。コミュニティ形成を干場さんが非常に巧みにリードしていってるように見えるので。2年くらい前に会社の人と「シーンを作る」みたいな話をしたことがあったんだけど、そうじゃないんだね。シーンってのは結果として見えるものであって、それはコンテンツとその周辺にたくさん発生したコミュニティの力によって見えてくるものなんでしょう。

共犯関係の表現を「完成度が低いと批判するのは安直だ」と書かれていますが、それはそれでまた別の話ではないでしょうか。パッケージとキャンペーンは分割して考えないと、そこもボーダレスになってしまうと「作品」自体の質の低下につながってしまう可能性があります。今までの基準に加えて、トータルのキャンペーンで評価する基準も必要だってことですよね。要するに、例えばひとつの映画とUSJのWEBキャンペーンのようなものが一体化した形のものがあったとしても、映画自体の作品と全体としての影響力は別個で考えましょうということ。

それにしても。

こうやって考えていくとリップマンとかブーアスティンとかラザースフェルドとかもっとちゃんと勉強しときゃよかったなぁと思ってしまいます。ま、概念的なものを理解してもそれをどう実践するのか考えないと意味ないんですけどね。

はぁ、来月からはもっと動きやすくなるなぁ。

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